〈OB消息〉

「楠 敏也先輩ご逝去にあたり」

記事掲載日:2021.01.12

「楠 敏也先輩ご逝去にあたり」

川口晃司(平成3年卒)


暮も押し迫った20201223日午後1154分、楠敏也先輩が逝去されました。1週間ほど前から誤嚥性肺炎で入院されていて、危険な状態とは聞いていましたが、こんなに早くお別れが来るとは・・・
実は2018年の秋ごろ、ご本人から癌を患っていること、すでに数回の手術及び抗がん剤治療を行っていることを聞かされました。ごく一部の方にしかお伝えされていませんでしたので、皆さん突然亡くなられたと思われたとことでしょう。人に弱みを見せることを良しとしなかった方ですので、合唱の練習では、そういう雰囲気を出さないようにもされていました。
楠さんは私の8年先輩で、実家が近いこともあったのでしょうか、小学校を除く幼稚園から大学まで、直属の先輩―後輩の関係でした。中高時代はホザナコーラスの先輩として、大学ではグリークラブの先輩として、また卒業後はクローバークラブや一般合唱団の指揮者として、お付き合いいただきました。私がグリークラブやクローバークラブに入団してからは、氏を通して福永先生の逸話や大久保先生の名言(喉にセミ飼ってるんじゃないの?等)を良く聞かせていただきましたし、私を含めた留年組がそろって参加した1991年のOB四連「ラ・マンチャの男」や香港旅行は良い思い出です。また、同期の小貫岩夫君をご自身の師匠である林誠先生に引き合わせるなど、後進の育成にも尽力されました。
楠さんを一言で例えると・・・某女史曰く「こどな」だそうです。子供のような純粋さ、繊細さと、音楽面や主義主張で譲れない一線は決して譲らない大人の頑固さの両面を持ち合わせた方でした。それゆえに軋轢もあり、誤解された面も多々あったと思います。
1992年から私と楠さんは一般合唱団では指揮者と事務局マネージャーとして長年お付き合いさせていただきました。インターユニバーシティオーケストラ&コーラス(現 みやこフィルハーモニック)の旗揚げに参加し、先見性と独自の音楽観によるパフォーマンスは各方面から評価されましたが、1995117日の阪神淡路大震災を機に「震災遺児が成人するまで支援していこう」と20年間チャリティーコンサートを続け、気が付けば総額2,000万円超をあしなが育英会に寄付することになりました。この活動は氏の最も大きな功績であり、かつ、氏のライフワークでもありました。それだけに震災25周年の20203月に企画していたチャリティコンサートが新型コロナウィルスの蔓延により中止となったことは、ご本人もさぞ無念であったろうと思います。
楠さんの練習はユーモアに富んでおり、合唱団の雰囲気作りにも好影響を与えるものでしたが、音楽に関しては厳しく、長年の付き合いで私自身褒められたのは3回生の定演「岬の墓」のソロ(アーーーー)だけです()
そんな氏でしたが、晩年の練習ではソロ部分を歌われる際に珍しく音符を見失われることがありました。本当に辛い状況でも泣き言を言わず、懸命に指揮されている氏を直属の後輩として誇らしく思います。

ご葬儀では、コロナ禍の中、皆で賛美歌405番「かみともにいまして」を歌い、天国にお送りしました。
今頃は仲良しだった池尻先輩や大森さんら早逝された仲間と天国で再会されていることでしょう。今までありがとうございました。そして、お疲れ様でした。ゆっくり休んでください。合掌。



年末飲み会にて(1993年ごろ)
大碇剛関を励ます会にて(ラグビー選手林敏之さんと)(1995年)
大碇剛関を励ます会にて(1995年)
香港旅行(1996年)