<OB会情報>東京クローバークラブ特別演奏会が開催されました

開催日:2011年(平成23年)3月26日
会場:LinkIcon第一生命ホール

   
3月11日の東日本大震災から2週間あまり、大変な時期であり
開催をめぐり議論沸騰、結局災害地への想いを込めて演奏会は予定通り開催されました。

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メンバーからのメッセージ

東京クローバークラブ特別演奏会を終えて(更に団結力が強まった!!)

東京クローバークラブ幹事長
 トップ 影田武道 (S41年卒)


東京クローバークラブは過去数々の演奏会を開催してきたが、今回の3月26日の演奏会は最も記憶に残る演奏会となった。
演奏会の2週間前に発生した東日本大震災はメンバーの家屋にも被害を与えたが、メンバーの心の中に多くの傷跡を与えてしまっていた。テレビから映し出される被災地の光景は、メンバーの歌う心を奪い去るほどの悲惨なものであった。
このような状況下で演奏会を開くべきか中止か、様々な意見が出始めたので3月19日に小林指揮者を除くメンバー全員出席のもとに会議を開き全員の意見を聞いた。
3時間半に及ぶ熱い議論の後、記名投票を行い17対19で中止が2票多かったものの、マネ会一任が議決された。翌日マネ会を招集し演奏会開催を決定したが苦渋の選択であった。開催を決定したものの私には二つの事が心配であった。一つ目はメンバーの歌う心が折れていて、果たして本番で良い演奏が出来るのか、二つ目はクラブを二分するような意見の対立が生じてしまい、演奏会後のクラブの運営に支障が出るのではないか。
3月21日のゲネプロは13時から20時まで続けられたが、メンバー全員が高い緊張感に包まれ、意見の対立があったこと等が嘘のように、全員の顔付きが演奏会を絶対成功させるぞとの表情になっていて、私の心配事は全く杞憂のものとなっていた。
雨降って地、固まるのごとく、東京クローバークラブの団結力が更に強まったと確信した。
演奏会開催についての一番の心配事は、ご来場のお客様の安全が確保されるかであった。
演奏会当日は久し振りの快晴、交通機関もほぼ平常運転されており、予想していた以上にお客様のご入場をいただいた。最も恐れていた地震もなく、お客様が我々の演奏に満足されて無事に会場を去る姿を見た時、腹の底から演奏会を開催して良かったと感じた。
日頃は信仰心の薄い私ではあるが、この時ばかりは神に感謝せずにはいられなかった。
演奏会はレクイエムと黙祷で始まりアンコールの詩篇98で終わったが、被災で亡くなられた皆様への弔意と、今も苦しんでいる被災者の皆様への激励と癒しとなるよう祈りつつ歌いました。アンコール2曲目の詩篇23(死の影の谷を行くときも私は災いをおそれない)では指揮者が曲説明で言葉が詰まり、メンバーもお客様も一緒に涙して会場全体が一つとなった感動のフィナーレになりました。改めて歌の持つ素晴らしさと影響力の大きさを再認識しました。
東京クローバークラブのメンバーの平均年齢は60歳を超えていますが、今後も元気に同志社イズムに基づいたカラーを出しながら歌い続けてまいります。
今回の演奏会にあたり、OB会をはじめ関係各位より過分なるお祝いの品と激励のメッセージをいただきました。ここに謹んで御礼申し上げます。

『至福の時、今ココニ』

バス 後 藤 健 夫 (S39年卒)


2011年3月26日は私の合唱人生において記念すべき日となった。43年前に混声合唱団で一緒だった妻も「本当に良かったですよ」とさり気なく言ってくれた。結婚40周年をつい先日迎えたが、その間、妻は私がオンステする殆ど全てのコンサートに顔を出し客席を暖めてくれた。だが今回のコンサートは今までとは一味も二味も違っていたように感じたであろう。
余震の可能性もある中、足を運んで下さったお客様からも電話やメールで「有り難う」「やって良かったですね」「来てよかった」など嬉しい“お褒めの言葉”を沢山頂戴した。
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客席のあるOB仲間が「ステージの上がり下りはもっと早く敏速に、前の人との間隔を少なく良い姿勢で」と指摘されました。我らオンステメンバーはそのことは充分承知していました。
しかしながら、私はステージ上で多くの先輩方の後姿、そして歩く姿を拝見し、実のところ切に感動したのです。身体や足の状態が満足でないメンバーも少なくはありませんでした。
本番に至るまでの間、言うに言えないストレスや葛藤を抱えながら、多くのメンバーは淡々とステージを務めたのです。私はいつも以上に、それぞれのメンバーの容(すがた)や顔をズームでアップにし観察しました。するとその画像に皆さんの歩んできた人生が鮮明に見えたような気がしたのです。
愛すべき連れ合いや、子息を亡くされた人、訥々と病む妻の介助・介護をされている人、近年内に2度の癌手術をした人、同じく癌と対峙しそれを克服した人、体調がこのところ芳しくない人、親しい友を喪った人など、それぞれが様々な艱難辛苦と向き合いながら、現実に立脚し、日々精一杯生きている仲間たち、その真なる姿が私のモニターに映し出されたのです。
だが、土曜日に練習場へ集まる時は至極平凡な「好々爺」であり、まるで過去・現在ともに何事もなかったような顔をして、ただ只管に歌っている人達ばかりだ。
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昭和39年卒業と同時に数年に亘り、執拗なまで葉書が手元に届いた。昭和15年卒の松本寛二大先輩からだった。しかも手書きの葉書である。その頃、松本先輩には誠に申し訳なかったが、クローバークラブへの練習参加の呼びかけに応える気は更々なかった。今だから言えるが、誠に無礼な言い分ではあるが、24,5歳の私達には当時の先輩方に反発はあっても、同化して一緒に合唱する気にはならなかった。先輩と言っても今から思えば所詮30歳代か大先輩でも40歳代の人々だった。それでも世代間の違いは、いつの時代も大きな隔たりを生じさせる魔物のようなものかもしれない。結局、私はそれから37歳までの13年間、仕事の都合もあったがクローバークラブには一度も参加しなかった。
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昭和53年勤務先のVAN JACKETが倒産した。その後自己破産となり残務整理を立場上仕方なくやっていた。その年の秋だったと記憶している。東京クローバークラブの何周年かのコンサートが開催された。同期の岩木君から「後藤、良かったら出て来いよ」と知らせてくれた。残務整理でつまらない日々を過ごしていた私は、同期の岩木君が誘ってくれたこともありコンサート会場に渋々足を運んだ。
するとリハーサルの合間や休憩時間に多くのメンバーが傍に寄って来てくれ、私に声をかけてくれた。最初に声をかけてくれたのが御当人も忘れているでしょうが、昭和31年卒の橘 守さんだった。実をいえば若い頃一番私が厭で煙たかった世代です。今から思うと誠に申し訳なく思っている。あの時、多くの仲間から心温まる、しかも外交辞令抜きの励ましが、私をして大阪及び東京のクローバークラブ参加への足掛かりを作ってくれた。
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2011年3月19日、ちょうど本番の1週間前に「コンサート開催」の可否をめぐり、全員で長時間論議した。パートリーダーから発言することになったので、私は一番に発言を求められた。私は迷うことなく、はっきりと「コンサート開催の中止」を強く訴えた…。
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2011年3月26日の「東京クローバークラブ特別演奏会」は心一つにして決行された。
誰一人も欠けることなく…。
それに一言書き添えたい、メンバーの中には同志社大学OBながら他合唱団に所属していた仲間、そして横浜国立大学、立命館大学、早稲田大学出身のセカンドテナー“おじさん三銃士”の仲間とも、あのステージで一緒に歌えたことを私は忘れない。
静寂の中「Re-qui-em ae-ter-nam do-na e-is Do-mi-ne…」そして暫し黙祷が…。